聲明が仏教と共にもたらされたことは、歴史が証明も手助けをしてくれます。仏教は今から約2500年前、インドでガゥタマ・シッダールタ(釈尊)によって興隆されました。釈尊在世時は説法を聞き、その教えを守ることが修行生活の全てであったため、音楽を伴った儀礼が存在した事は考えにくいようです。しかしながら、原始仏教教団は早い時期からバラモン教に影響を受け、その教えを暗記する際に旋律をつける方法が取り入れられたと考えられています。これをgatha(ガーター)と言い、中国では伽陀(かだ)と翻訳して唄(ばい)・梵唄(ぼんばい)・唄匿(ばいのく)と呼びました。
それでは、聲明という呼び名は何処からきたのでしょう?インドで言う聲明とはśabda vidyā(摂拖苾駄)といいます。
当時のインドでは「五明」と呼ばれる五つの学問の別が存在しました。すなわち、【理学】工巧明(くぎょうみょう)・【医学】医方明(いほうみょう)・【論理学】因明(いんみょう)・【哲学】内明(ないみょう)・【音韻学】聲明(しょうみょう)です。聲明は、上述の通り、文法・音韻学であって、決して「歌詠」という意味ではありませんでした。
真言宗では、大日経を専門的に勉強する「胎蔵業」、金剛頂経を専門的に勉強する「金剛頂業」、そして悉曇(梵語)を専門的に勉強する「聲明業」という「三業度人制度」が存在しましたが、ここでも「聲明」といえば「梵語を勉強すること」と理解されていたことが判ります。
仏教では、釈尊が示した真理を「法(dharma)」と呼びます。この「法」は、「不立文字」と呼ばれますが、実際には経典や読誦によって相伝されています。この文字や言葉をよく観察しますと、文字の形、文字の発音、文字の持つ意味などが内在していることが判ります。この文字の持つ音が梵唄の法となり、やがて諸種の器楽や声楽へ結びついたと考えられています。ただし、当時の経典がどのように歌われていたかは不明です。一方『聲明類聚』にも、私たちが唱えている聲明を
聲明ト者印度ノ五明ノ名ナリ。支那偏ヘニ取テ梵唄ト曰フ。曹陳王端ヲ啓ケリ。本朝ニハ遠ク天竺二取テ名ヲ立ツ焉。
として、「梵唄」と呼ばれていたことを挙げています。 梵唄とともに曹陳王という人物の名前が出てきましたが、この関係については、魚山伝説を含め、次のように説明されています。
大唐陳王印度ニ渡リ、魚山ニ入テ梵王ノ妙曲ヲ感セン従リ、震且専ラ声音ヲ以テ化道ノ随一ト為ス。
中国の三国時代に活躍した曹操の息子であり、詩聖と評された曹植(192-232)がインドに渡り、魚山と呼ばれる場所で、梵王の妙曲(=聲明)を感得された事を述べています。この魚山という場所は、文中では印度となっていますが、別説には中国・山東省の山ともされています。魚山とは、岩肌が魚の鱗状であったことから、俗に呼ばれた名称です。曹植がここでペルシャの北にある康居国から来た僧会のイラン系仏教声楽を聞いて感動したという説話から、中国では梵唄の発祥地とされ、これが後に聲明の別称として扱われるようになりました。やがて、「化道随一」と言うように、梵唄が盛んに用いられるようになり、日本へ伝搬していきました。
日本では、いつから「聲明」と言う言葉が梵唄を指すようになったのでしょうか。現在では、日本に伝来し鎌倉時代の初め(1219~1233年ごろ)に天台宗大原流聲明家の湛智(1163~1237年?)と言う方が、雅楽の理論で聲明楽理(しょうみょうがくり)の説明を試みた『聲明用心集(しょうみょうようじんしゅう)』という著作の中で用いられた事が初例※1と考えられています。なぜなら、この書が最古の楽理書とされているからです。
以上の様に、「聲明」という言葉は、もともと音韻・文法学であったのが、いつしか仏教声楽たる「聲明」を指すことになった事がお判りになるでしょう。
写真:『南山進流聲明類聚 附伽陀』より
※1 『仏教音楽事典』法蔵館 P157下
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