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聲明について

4.天台聲明

法華懺法 平安期になると、入唐僧によって新しい聲明がもたらされます。すなわち、伝教大師最澄によってもたらされた天台宗、弘法大師空海によってもたらされた真言宗です。両者は、あらゆる文化の終着点であった唐より、思想だけではなく様々な文化・芸術をも輸入しました。密教美術と称される様々な絵画や工芸品の完成度は、すでに皆様もご存じのことと思います。彼らは当然、儀式と聲明曲も輸入されました。この聲明は、先哲の方々によって洗練され、それぞれ天台聲明と真言聲明という大きな流れを形成しました。

 天台宗は伝教大師・最澄(767〜822)によって開宗され、比叡山を本拠地に天台密教が展開されました。もちろん、最澄帰朝とともに聲明も伝来されたと考えられますが、天台聲明の基礎を固めたのは、入唐八家の一人である慈覚大師・円仁(794〜864)です。円仁は、長音供養文、独行懺法、梵網戒品、引声念仏、長音九條錫杖などの「五箇の秘曲」を中心に聲明を唐より請来されました。

 円仁以降、様々な相伝を統合し、統一したのが聖応大師・良忍(1073〜1132)であり、ここにおいて天台聲明が集大成されました。良忍師は、晩年に洛北の大原へ来迎院を建立し、そこを聲明の根本道場としたことから、天台聲明の中心地は、延暦寺から大原へ移ることとなり、その聲明は、「大原聲明」と呼ばれるようになりました。また、この地一帯は先述した曹植の故事にちなんで魚山と呼ばれるようになり、南北に流れる河は、それぞれ聲明にちなんで呂川、律川と名付けられました。

 この魚山という名称は、天台聲明を伝承する寺院の山号に用いられるばかりでなく、梵唄そのものを魚山と呼ぶようになり、「魚山」といえば「聲明」を指すようになりました。

 ところで、現行の天台聲明は、博士(楽譜)に対して極めて忠実にお唱えされています。これは、大正時代に御聲明研究家の吉田恒三氏が、多紀道忍師と共同研究を行い、魚山集(譜本)の博士を徹底的に研究し、「正しい旋律はこうあるべきだ」と推測しながら、徹底的に校訂したものを多紀道忍師が唱詠したものが基本となっているためです。この研究成果は「天台声明大成」など、多くの著作が残されました。ただし、この校訂によって古くから相伝してきた聲明が、どの程度改変されたのかは不明なのだそうです。


写真:天台聲明『法華懺法』法則


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