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聲明について

8.南山進流以前

血脈2 先の第6回「南山進流」にて、「当時の高野山に真言聲明が流伝していなかったわけではない」と書きましたが、もう少し詳しく見ていきましょう。

 作者・成立時代不明の『南山要集』によれば、

聲明由來之事
或記云。高野聲明救世僧都教之

とあり、救世(キュウセイ或いはクセ)僧都(840〜973)の名前が挙げられています。この救世という人物に関する資料は乏しいのですが、祐寶(1656-1721)により真言宗の高僧伝として撰述された『傳燈廣錄』によりますと、比叡山の相應に従って出家し、勉学後は興福寺へも赴くなど様々な仏教を勉学し、さらには仁和寺別当・東寺長者の寛空に従って密教の奥義を学び、ついには第十六世東寺長者・第十世金剛峯寺座主※1となられた名僧でした。しかも、『紀伊続風土記』高野山之部・学侶・巻之十「高僧行状」の中の、「座主救世傳」には

世善音聲又爲舞曲。世俗傳稱救世舞。

と紹介され、舞曲に秀で、それは「救世舞」と称されて後世に伝えられる程の才能をお持ちでした。当時の天皇であった醍醐天皇は、その宏才を讃えて空海の真蹟ならびに五股杵を贈ったというのですから、並大抵のことではありませんでした。この方が、後に高野山へ登山された折り、無空座主の下山によって高野山が荒涼し、高野山に於ける法会や聲明の伝承が失ってしまうことを憂い、方々の僧侶を集めて聲明の曲を習わせたと誌しています。また、『紀伊続風土記』高野山之部・学侶・巻之四十「学侶事相之二・教相門」では、

本山の聲明の伝統。上古に在っては詳ならす。南山要集に或記云。高野聲明は救世僧都教之云云。
とあり、その割り注には、
或云。救世僧都高野中絶之後聲明ノ法ノ界師也。按ニ救世は延喜年中の行化にて。此時流傳せしならん。救世は本相應和尚の徒なれば。大原の流なる與。
(但し、文末に「救世ノ傳を小原流と考ふは非なり。傳燈廣録に。救世聲明は眞言所傳たる事を記せり」と割り注あり)

として、延喜年中(901〜923)に活躍されたことが記されています。これによれば、本相應院流をもって教授していた事になります。師匠であった寛空と言えば、真言聲明中興である寛朝の師であり※2、救世は寛朝と兄弟弟子と言うことになります。その救世が、高野山で何とか聲明を失う事が無いよう努力されたと言うのですから、細々ながらも真雅僧正系、真言聲明中興である寛朝からつらなる聲明を教授されていたのでしょう。しかし、その相伝も

惜哉其傳今絶矣。

と『紀伊続風土記』高野山之部・学侶・巻十「高僧行状」が述べる様に、惜しくも絶たれてしまうのです。救世師以降、他にも二系統の真言聲明を遊学し、高野山へ登った方々の名前が山史に残されていますので、南山進流誕生までには、それなりの流派が伝承されていたのだろうと思われますが、大進上人流が一山を席巻し、南山進流として大いに隆盛するとともに、次第に絶えていったのでしょう。


東寺長者補任

 ところで、現在でも高野山上だけで用いられている「高野節」という唱法が存在します。通説的には、昔の法会が長時間にわたって執行されたため、聲明はじっくり唱えられることが少なくなり、かなり簡素化された唱法となったものだと言われていますが、金堂不断経での中曲理趣経の高野節は、なかなかの趣があり、かえって心地よさを感じます。また、称名礼や伽陀の曲は大原流に似るとされ、往古の救世伝が何らかの形で残されているのかもしれません。

写真上:『南山要集』(『続真言宗全書』第四十一巻収載)より
写真下:『東寺長者補任』(京都大学附属図書館所蔵・平松文庫)より
※1 『傳燈廣錄』には「第八世座主」、『高野春秋編年輯録』には「第十一世座主」と紹介されるが、第十世である。ちなみに、高野山真言宗ホームページ記載の「歴代座主一覧」は検校職(山主)一覧の誤りか。
※2 「5. 真言聲明」掲載の相伝図を参照


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